いらつきはロマンスの始まり
パンの焼ける匂いは、朝よりも夕方の方が濃い。
閉店間際の蒸し暑い厨房で、ボクはいつものようにまな板に残った粉を布で拭い、棚を磨き、黙って時間が過ぎるのを待っていた。
店の奥には、今日もあの人がいる。
加賀ひとみ。四十六歳。
背筋の伸びた立ち姿は、若いアルバイトであるボクよりずっと自信があるはずなのに、どこか苛立ちを宿しているようだった。
髪は淡い栗色、ところどころ白いものが交じり、それを無理に隠そうとしない自然さがある。
厨房の照明が横顔をなでると、頬の小さなしみも、うっすら浮かぶほうれい線も、全部その人の歴史のように見えた。
「また皿を重ね過ぎ。割れたらどうするの」
背後から投げられる声は、今日も少しだけ尖っていた。
ボクは皿の縁を持ち替え、軽く頭を下げてみせる。
昨日まではそれで終わっていたのに、今日は胸の奥がざらついた。
自分のミスではないと知っているのに、謝罪の言葉を選ばされる苦さ。
その小さな棘が、舌の裏側をずっと刺していた。
「……俺のミスじゃありません」
はじめて反論の言葉を投げた瞬間、ひとみの動きが止まった。
彼女はゆっくり振り返り、唇の端だけで笑うような、怒るような曖昧な表情をつくった。
睨まれると思った。
しかし次に出たのは、予想外の言葉だった。
「……そうね。ごめんなさい」
謝られることを期待していなかった分、息が乱れた。
厨房の空気が変わり、粉の匂いの奥に、人の体温のような湿った熱が混じる。
ひとみはボクの方へ近づいてくる。足元の靴音がゆっくり、確実に距離をつめてくる。
彼女の顔が間近になると、甘く熟れた果物のような匂いがした。
石鹸ではない。香水でもない。
肌そのものの匂い――長い一日を終えた女の体温が、呼吸と混じり柔らかく漂ってくる。
「あなた、怒るのね」
「普通ですよ」
「そう。でも……怒った顔、悪くないわ」
その声が低く、胸の奥まで沈んでいった。
ひとみは冷蔵ケースの影に立ち、薄いエプロンの布越しにでも分かるほど胸元の起伏がはっきりと揺れた。
肩幅は華奢ではないが女らしい丸みがあり、年齢を刻んだ首筋のラインが妙に色っぽい。
50代特有の、若い子には無い柔らかな重み、成熟した肌の弾力。
身体に蓄えた熱ごと、こちらを飲み込もうとする猫のような目。
その視線に呑まれ、ボクは息を飲む。
彼女は、ふっと目を伏せた。
睫毛の影が頬に落ちて、それからまたこちらを見上げる。その仕草一つとっても、年下のボクを試すような、誘うような、複雑な色が混ざっているように見えた。
「さっきの、お皿のことだけど」
「はい」
「本当は分かってたの。あれ、あなたのせいじゃないって」
ひとみは、ため息を落とすように言った。
喉元がしなやかに動き、白い首筋に一本だけ浮かぶ筋が、妙に生々しく目に入る。
近くで見ると、肌は決して若い子のように張りつめてはいない。しかし、柔らかな起伏と、そこに宿る微かな影が、逆に目を離せなくさせた。
「じゃあ、どうして怒ったんですか」
自分でも、ちょっと子どもっぽい言い方だと思った。
けれど、喉から飛び出した声は戻せない。
ひとみは、ほんの一瞬だけ口元を引きつらせ、それからボクの横を通り過ぎてシンクの前に立った。
袖を肘までまくり上げる。
うっすらと浮いた血管と、家事で鍛えられたのだろう筋の通った前腕。その上を、白く粉をはらった水が伝っていく。
「……たぶん、八つ当たりね」
「誰にですか」
「いろいろよ。旦那にも、自分にも、歳にも。この店にも、あなたにも」
彼女の指先が、水の中で皿をなぞる。
四十代の指。細くはないが、節のひとつひとつが綺麗に揃っていて、手の甲に小さなシミが点々と浮いている。
その手が、さっきまでボクのミスを責めていた。
今は、水の中で静かに震えている。
「ごめんなさい。あなたに当たるのは、違ったわね」
振り返った彼女の目尻には、薄い疲労のにじむ線があった。
けれど、その奥は妙に澄んで見える。
店の蛍光灯が、瞳の中に白い筋になって揺れ、その中にボクが小さく映っていた。
「……じゃあ、代わりに奢ってくださいよ」
気づけば、そんなことを言っていた。
自分でもびっくりするくらい、軽い調子で。
怒りと、戸惑いと、どこか嬉しいような感情が混ざって、口が勝手に動いていた。
「奢る?」
「今日の仕事終わり。コーヒーとか、甘いものとか。謝罪ってことで」
ひとみは少し目を丸くし、それから小さく吹き出した。
笑うと、頬の小さなしわが一気に増える。それがなぜか、とても愛おしいものに見える。
「……図々しいわね」
「いつも怒られてるんで、これぐらいの権利は」
「そうねえ。じゃあ――」
言いながら、彼女はわざと考えるふりをする。
長い首筋に手を当て、胸元をかすめるように指を滑らせる。
作業用エプロンの下に着た薄いシャツが、動きにあわせてごくわずかに張りを変える。
布の下に隠された丸みは、若い頃のように高くはないのに、重たく、確かな存在感を持って揺れる。
「……コーヒーより、もう少し強いものの方がいいかもね」
ぽつり、と落とされた言葉が、胸の奥に沈む。
彼女の目が、少しだけ挑むように細くなる。
「付き合ってくれる?」
「……どこまでですか」
「あなたが逃げ出すところまで」
そう言って微笑んだひとみの顔は、いつもの厳しい表情ではなく、妙に少女っぽい影を浮かべていた。
ひとみの生身を感じる
店を出ると、夜風が焼きたてのパンの残り香をさらっていった。
商店街の看板が順に消えていき、薄闇の中を、ボクとひとみは並んで歩いた。
私服に着替えた彼女は、さっきとは別人のようだった。
柔らかいベージュのカーディガンに、濃紺のワンピース。
長くはないが膝がぎりぎり隠れる丈で、歩くたびに布の奥で脚のラインがちらちらと動く。
二の腕は少し肉がついていて、そこにカーディガンの袖がぴったりと沿い、丸みを強調している。
夏の終わりの湿った空気の中、その肌はうっすらと汗ばんでいるようで、街灯に照らされるたび、微かに光った。
「そんなに見るなら、料金いただこうかしら」
「見てないです」
「嘘。さっきから、ずっとこっちに視線刺さってる」
楽しそうに言いながら、ひとみは髪を耳にかける。
耳たぶには小さなピアス。金色の輪が、歩くたびにかすかに揺れる。
その耳から首筋にかけてのラインを、ボクの目はどうしても追ってしまう。
「……着替えるの、時間かかったでしょ」
「女はこういうのに時間がかかるの。あなたはまだ知らなくていいこと」
「まだ」という言葉に、何か含みを感じた。
ボクは喉の奥を鳴らして誤魔化す。
商店街を抜け、少し広い通りに出る。
ネオンの灯りが増え、人の気配も増える。
その中で、ひとみの歩き方は変わらない。背筋を伸ばし、一定の速度で、迷いのない足取り。
ふと、彼女の左手に視線が落ちる。
細いリングが光った。
結婚指輪。
視線に気づいたのか、ひとみは指輪を親指でなぞり、ちいさく息を吐く。
「……旦那さんとは、仲いいんですか」
「急にどうしたの」
「いや、その……」
うまく言葉が続かない。
聞くべきじゃなかったかもしれない質問が、舌の上で迷う。
「仲が悪かったら、こんな時間に若い子と歩いてないわよ」
一拍置いてから、彼女は続けた。
「って言えば、安心する?」
笑いながら、どこかさみしい響きのある声だった。
ボクは答えに窮し、うつむく。
アスファルトの上で、二人の影が細長く伸びる。
ひとみの影は、胸元でふっくらと膨らみ、腰でくびれている。
「……本当のところは、どうなんですか」
「本当のところ?」
「はい」
「本当のところはね」
彼女は足を止めた。
すぐ横に、少し古びたビルの入り口がある。
一階は居酒屋、上の階にはいくつかの看板が並んでいた。
「こういうところで飲むぐらいには、退屈してるわ」
看板のひとつ、落ち着いた色合いのバーの名前に指先を向ける。
爪は短く、派手なネイルもない。
それなのに、指先に視線が吸い寄せられる。
その指が胸元に触れたら、という想像が、喉の奥で熱になる。
「行く?」
「……はい」
返事をした瞬間、もう後戻りはできないと分かっていた。
大人のバー
バーの中は薄暗く、カウンターに沿ってぼんやりと灯るライトが、木目のテーブルとグラスの曲線を優しく照らしていた。
ひとみはカウンター席に腰を下ろし、足を組む。
ワンピースの布が少し持ち上がり、膝頭とふくらはぎのラインが露わになる。
若い頃のような張りはないが、柔らかく肉付きのいい脚。
そこにうっすらと走る細い筋や、膝の周りに集まった小さなしわまでもが、目に焼きつく。
「ビール? カクテル?」
「じゃあ、同じので」
「真似するの?」
「まだ知らなくていいこと、教えてくださいよ」
カウンター越しにマスターがグラスを差し出し、氷の音が静かに響く。
グラスを持ち上げるひとみの指。
グラスの冷たさに、少しだけ肩がひくりと震える。
一口飲んだあと、彼女は喉を撫でるように指を滑らせた。
その動きに合わせて、胸元の布がわずかに上下する。
ゆるやかな丸みが、布の中でゆっくりと形を変え、その重さを主張する。
「……そんなに見たい?」
「別に、そういうわけじゃ」
「じゃ、どういうわけ?」
からかうように言いながらも、彼女の視線は真っ直ぐだった。
訴えるようでもあり、試すようでもあり、どこか救いを求めるようでもある。
「ひとみさんって、綺麗だなって」
「お世辞」
「本気です」
思ったより、まっすぐな言葉が出た。
口に出した瞬間、自分で驚く。
けれど、もう止められない。
「毎日見てましたから。エプロンの下の、ラインとか……」
「ライン?」
彼女はゆっくり自分の体を見下ろした。
カーディガンの前を、少しだけ指先でつまんで引く。
その下では、ワンピースの布が胸の丸みに沿って緩やかな山を描いている。
「こんな歳の女の『ライン』なんて、気にする子いるのかしら」
「いますよ。ここに」
ボクが指で自分の胸を指すと、ひとみはふっと笑った。
笑い皺が目尻に寄り、それが次第にほどけていく。
「……あなた、危ないわね」
「危ない、ですか」
「うん。私みたいな女を、勘違いさせるぐらいには」
グラスを置く音が、カウンターに低く響く。
そのまま彼女は身体をこちらに向け、背もたれに軽くもたれた。
胸が斜め上を向くような姿勢になり、布の下の丸みがいっそうはっきりする。
胸の下から腰にかけてのライン。
ウエストはきゅっと細くはないが、自然な起伏がある。
そこからヒップにかけて、布越しにわかるやわらかな膨らみ。
年齢と共に少し重力に従ったシルエットが、逆に豊かさを感じさせた。
「……ねえ」
「はい」
「あなた、さっき怒った時も、こんな顔してた?」
ひとみは、不意にボクの頬に指を伸ばした。
ひやりとした指先が、汗ばんだ肌に触れる。
「もっと、こう……目つきが鋭かった気がする」
「そんなことないですよ」
「嘘。今はすっかり、何されても許しそうな顔してるもの」
その言葉と同時に、指が顎のラインをなぞる。
くすぐったさと、期待と、恐怖が入り混じり、息が浅くなる。
「……何されても、許しますよ」
「簡単に言わないほうがいいわよ」
そう言いながら、彼女の体はゆっくりと近づいてきた。
椅子がわずかに軋み、彼女の肩がボクの肩に触れる。
カーディガン越しに伝わる温度。
柔らかいのに、芯のある体温。
耳元で、彼女の息がかかった。
「本当に、何されても許す?」
「……はい」
自分の声とは思えないほど、低く掠れた声だった。
次の瞬間、ふわりと、柔らかいものが頬に触れた。
唇だった。
けれど、それはほんのかすり傷のような軽いキスで、触れたか触れないかのうちに離れて行った。
「試しに、ね」
ひとみはそう言って、また少しだけ距離をとる。
しかし、彼女の瞳は逃げない。
グラスの中の氷が、静かに音を立てて溶けていく。
アフターバー
バーを出ると、さっきより夜の湿度が増していた。
街灯が少し滲んで見えるのは、酔いのせいかもしれない。
「もう帰りますか」
「あなたは?」
「まだ、帰りたくないです」
口をついて出た正直な言葉に、ひとみは目を細めた。
何かを決めるように、軽く息を吸い込む。
「……じゃあ、もう少しだけ、歩きましょうか」
歩き出した彼女の足取りは、もう迷っていなかった。
少し人通りの少ない道を選び、やがて街のはずれの方へと向かっていく。
ネオンの数が減り、代わりにホテルの看板が目立ちはじめる。
ひとみは一度だけ立ち止まり、振り返ってボクを見る。
その顔には、ためらいと期待と、諦めに似た決意が全部混ざっていた。
胸元が小さく上下し、ワンピースの布の下で、熟れた果実のような丸みが揺れる。
「ここから先は、本当に『何されても』になっちゃうわよ」
問いというより、最後の確認だった。
ボクはゆっくりと頷く。
「……ずっと、見てたから」
「何を?」
「ひとみさんの、全部」
彼女の肩がわずかに震えた。
次の瞬間、ぎゅっとボクの手を握る。
指と指が絡み合い、手のひら同士が密着する。
細くはない、しかし女の人特有の柔らかさを持った指。
そこに、日々の家事と仕事で積み重ねた硬さが混ざっている。
「そんな風に見られてたなんて、知らなかったわ」
「言えなかっただけです」
「もっと早く言ってくれていたら、人生、変わっていたかもね」
寂しそうに笑いながらも、その足はホテルの入り口に向かっていた。
自動ドアが開く。
冷房の冷たい風が、二人の熱を一瞬さらっていく。
しかし繋いだ手だけは離れない。
受付の横を通るとき、ひとみはほんの少しだけボクの方に身体を寄せた。
その横顔を見上げると、頬のラインがふわりと柔らかくなっている。
カーディガンの袖口から覗く手首は、細く、血管が透けて見えるほど白い。
そこから先の腕、肩、胸、腰――布の下に隠された輪郭が、一つ一つ、輪郭を増して迫ってくる。
エレベーターの中。
狭い箱の中で、二人分の体温が逃げ場をなくし、空気がじっとりと重くなる。
ひとみの胸元が視界の端に揺れる。
布越しなのに、その存在感は圧倒的だ。
若い子のように上を向いているわけではなく、重みを持って少し下へと引かれている。
それでも、しっかりとした丸みを保ち、呼吸のたび柔らかく形を変える。
「そんなに見てると、触らせたくなくなるわよ」
「逆じゃないんですか」
「どういう意味?」
「たくさん見てる方が、触り方ちゃんと考えるじゃないですか」
何を言ってるんだ、と思う。
けれど、ひとみは目を見開き、それからゆっくりと頬を赤くした。
「……本当に、危ない子ね」
エレベーターのドアが開く。
廊下の静けさが、心臓の音をやけに大きく響かせた。
逃げ出したい自分と投げ出したい自分と
部屋に入ると、ホテル特有の乾いた空調の匂いがした。
白いシーツのかかったベッドがひとつ。
足元には淡い色のカーペット。
ありふれた、どこにでもあるような光景。
その真ん中で、ひとみの身体だけが、異様なほど生々しく感じられた。
カーディガンを脱ぐ動作ひとつで、彼女の輪郭がくっきりと浮かび上がる。
ワンピースの肩紐が滑り、丸みを帯びた肩が露わになる。
少し日焼けした肌。
その上に薄く乗った、小さなシミや、年齢の証のような細かな陰影。
胸元まで続くラインは、緩やかな坂道のようだ。
完璧な滑らかさではなく、ところどころに柔らかな盛り上がりと凹みがあり、その全てが「生きてきた時間」を物語っている。
振り向いたひとみの目には、さっきまでの茶化すような色はない。
ただ、まっすぐな熱だけが宿っていた。
「……ねえ」
「はい」
「こういうの、初めて?」
その問いが意味するところを、ボクは理解していた。
けれど、正直に頷く。
「はい」
「私だって、ほとんど初めてみたいなものよ」
苦笑しながら、彼女は自分の胸元にそっと手を当てる。
掌に押し上げられ、布の下で丸みが形を変える。
長年その場所にあった柔らかな重みを、確かめるような動きだった。
「ずっと、ここを大事にしてるつもりだったのに。いつの間にか、『何のために』か、分からなくなってて」
ボクは一歩近づき、その手ごとそっと包む。
掌越しに伝わるぬくもりと、確かな重さ。
布越しでも分かる、豊かさと、わずかな張りと、重力に抗わない自然な垂れ。
「……今は、分かりますか」
「さあ。教えてくれる?」
顔が近づく。
今度は、逃げなかった。
彼女の唇は思ったより柔らかく、少し乾いていて、触れた瞬間、わずかに震えた。
最初は浅く、確かめるような口づけ。
呼吸が合うにつれて、角度が変わり、唇の重なり方が深くなっていく。
息と一緒に、彼女の体温が流れ込んでくる。
鼻先にかかるのは、シャンプーの残り香と、仕事終わりの少し汗ばんだ肌の匂い。
それらが混ざり合い、頭の芯をぼうっと熱くする。
唇が離れると、ひとみは目を伏せ、小さく笑った。
「……本当に、キスだけでいいの?」
「今は、それで」
「今は?」
彼女はボクの胸に額を預ける。
ワンピース越しに、胸の丸みが軽く押し付けられ、その柔らかな重みがじわりと広がる。
耳元で、彼女の息が熱くなる。
「あなたといると、自分の身体がまだ女だったこと、思い出しちゃう」
その呟きは、シーツに吸い込まれて溶けていった。
◆
その日、何がどこまであったのか。
後から思い出そうとすると、ところどころ霞がかかったように曖昧になる。
ただ鮮明なのは、ひとみの身体の記憶だ。
指先で触れたときの、柔らかな弾力。
肩から背中にかけての、年齢を重ねた女の肌の温度。
胸元に頬を寄せたときに感じた、ゆっくりとした鼓動。
それらが、ボクの中に強く刻み込まれた。
モーニング
翌朝。
パン屋の厨房に立つひとみは、何事もなかったように淡々としていた。
いつものエプロン、いつもの表情。
ただ一つ違うのは、ボクと目が合ったときに、ほんの一瞬だけ浮かぶ微笑みのやわらかさだった。
「おはようございます」
「おはよう」
周囲には、他のバイト仲間や店長がいる。
昨夜のことを知るはずもない人たちが、いつも通りパンを並べ、レジを打っている。
ひとみはトレーを両手に抱え、棚にパンを並べながら、ボクにだけ聞こえる声でぽつりと呟いた。
「昨日のこと、忘れなさい」
「……無理です」
「そう言うと思った」
その横顔は、どこか満足そうで、どこか怯えているようでもあった。
「じゃあ、せめて――」
彼女はトレーを置き、エプロンの端を摘まむ。
その下に隠された身体のラインを、ボクはもう知っている。
胸の重さも、腰の丸みも、背中の温度も。
「仕事中の私は、いつも通りの『厳しい主婦バイト』でいさせて」
そう言って、わざと少しキツい声で続ける。
「さっさと棚、拭いちゃいなさい」
「……はい」
言葉だけ聞けば叱られている。
けれど、ボクの胸の中では、別の何かが暖かく灯っていた。
彼女の身体を知ってしまったことで、余計に距離が近くなったようで、
同時に、簡単には縮まらない溝もあるのだと知った。
既婚で、四十六歳で、子どものいない主婦。
六十歳の夫がいる女。
パン屋で、何かとボクに厳しく当たるバイト仲間。
そして、ホテルのシーツの上で、自分の身体がまだ女であることを確かめるようにボクに触れ、触れられていた人。
その全部が、加賀ひとみという一人の女の輪郭をつくっている。
ボクは棚を拭きながら、チラリと彼女の横顔を盗み見る。
エプロンの紐の上に乗る胸の丸み。
髪を結い上げたうなじの、汗ばむ気配。
長い一日が始まる前の、まだ少し眠たげな目。
――あの人はきっと、これからもボクに厳しく当たるだろう。
けれど、時々、あの夜のような目でこちらを見る。
そのたびに、ボクは思い出す。
あの部屋の薄暗い光と、シーツの白さと、その上に浮かび上がったひとみの身体の輪郭を。
そして、胸の奥で静かに確信する。
彼女はもう、ただの「厳しい主婦バイト」ではないのだと。

